蔵人的駄文日記

MC/DJ/Beat Makert/Producerなどなど行なう蔵人 a.k.a. DJ 雨宮龍之介の日記。適当にゆるく更新中。

当たり前

自分達が生きていて感じている"当たり前"って、ここ最近凄い恐い感覚だよなぁと思うこのごろ。

 

例えばどっかのお偉いさんの"LGBTに税金をかける必要はない"は個人的に

「え、この人、どう言う教育受けたらこう言う考え方になるの?恐い」

と感じました。

 

個人的に両性愛者であるので、一応まがいなりにもその人なので個人的に(そのお偉いさんのインタビューとかを聞いて感じたこと)は

「あ、こう言う思考回路の人には何を言っても無駄なんだ」

と半ば諦めの感情が生まれる。

 

例の渦中の当人のインタビューでちゃんと日本語喋れる、理解できる人が聞いたら"この人のなかでセクシャルマイノリティって存在しないんだ"と言う印象を受けることでしょう。

でも、これ某お偉いさんを例に出しているだけであって僕の周りでもやっぱり差別主義者はいるわけです。

 

その方々に説明しようと聞く耳を持たない以前の問題で理解力がないからいつしか僕は説明することをやめました。

無駄な労力使いたくないからね。

理解できる人には説明するけど。説明が下手だからどうしても長くなるけれどもね。

 

ただ、理解力がない、または思考に柔軟性がない方にはセクシャルマイノリティしかり、色々な人がいることを説明しようとは思わないのです。

例えば僕のような発達障害者で精神疾患持ってて両性愛者であるって、人からしたらDisのネタいっぱいあるネタの宝庫でしょう。

差別主義者の方々は差別し放題でしょう。

理解力がないこと、思考の柔軟性がないこと程罪な事ないと思うんです。

 

そう言う方々に対して、一々"発達障害"とはとか"精神疾患には"とか"セクシャルマイノリティって言うのは"とかもう説明するのが面倒だしどう足掻いても"でも〇〇だろ"とか

「人の話、ちゃんと聞いてた?どう聞いたらそう理解する?」

と言う返答が来るから余計に人間に対して絶望感しかないからいつしか自分の中のことを打ち明けなくなりました。

 

しかしながらこの

"自分が理解できるもの"は"当たり前"

"自分が理解出来ないもの"は"当たり前じゃない"=叩いてもいい

みたいな感覚が今の時代の人間の感覚なのでしょうか?

それを"当たり前"と感じる感覚が。

 

最後に蔵人おじさんの"My Life Is Despair"の歌詞の一説を引用して

"当たり前が当たり前じゃない"人間だっているんだよ、と胸に刻んで生きて行きたいものですに。